エコサイコロジーの知的基盤 その2

エコサイコロジーの知的基盤 その1

4.
ディープエコロジー (deep ecology)

 ジョージ・セッションズ(George Sessions) によると、ディープエコロジーは 「1960年代のエコロジー革命と呼ばれる時期における哲学的かつ科学的な社会・政治運動」として発生した。ディープエコロジーが主に重視しているのは、「近代の工業的に発展した社会の環境破壊的な進路を方向転換する基礎として、大きなパラダイムシフト ―認識、価値観、ライフスタイルの転換― を引き起こすことである」。2

セッションズは、ディープエコロジーを特徴づけるものとして次のものを挙げている。
(a)人間中心主義から生態系中心主義(ecocentrism)、生命圏平等主義(biospherical egalitarianism)、社会運動への移行
(b)深い問いかけを積極的に行うこと、つまり、生態的危機の原因を探る上で基本的前提となっているものの正当性を疑うこと
(c)文明は自然を〈超越〉し、自然から〈進化した〉ものだと考える「第二の自然」的観点を拒否すること

5. エコフェミニズム(ecofeminism)
 エコフェミニズムは、女性と自然との関連性に対する意識の高まりとともに1970年代に発生した。エコフェミニズムの重要な見識は、ウォレン(Karen Warren) によると、「女性の支配と自然の支配には重大な関係がある」ということである。3 問題は、ディープエコロジーが主張する人間中心主義ではなく、もっと厳密に言えば、女性や自然を搾取することを認める抑圧的で家父長的な社会構造や階層制にみられる男性中心主義(androcentrism) であると主張する。


 以上みてきたように、環境保護運動、環境神学、環境哲学、ディープエコロジー、エコフェミニズムがもたらしたものは、環境保護の考えや認識との関係における人間中心的、男性中心的、家父長的、階層的、西洋のユダヤ-キリスト教的世界観への系統だった批判と脱構築である。そしてこれは以下のことを引き起こした。
(a)一般の人々の生態学的危機への関心を高めること(環境保護運動)
(b)神の創造物や霊性的コミュニティの一部としてすべての自然を捉えなおすことと、キリスト教の理念として健全なスチュアード精神を形成すること(環境神学)
(c)道徳的配慮や自然の権利を動物、植物、生態系、ガイアを含むより大きなコミュニティまで拡大すること(環境哲学)
(d)支配的な西洋の人間中心、第二の自然的世界観を分析し、生態系中心、平等主義的世界観の可能性を議論すること(ディープ エコロジー)
(e)自然の侵害と、家父長的な支配階層制における女性の侵害との関連性に対する意識を高めること(エコフェミニズム)

これら環境学の諸分野が形成した知的基盤が、心理学者が自身の専門分野を生態学的危機と関連づけて研究し、人類の心理的健康と惑星の健康とは密接に結びついた不可分のものであるという命題を打ち立てる要因となった。


〈註〉
2.Sessions 1995, p.ix
3.Warren 1998, p.264

〈参考文献〉
Hibbard, Whit (2003). Ecopsychology: A review. The Trumpeter 19(2): 23-58

Nash, Roderick F. (1989). The rights of nature: A history of environmental ethics. Madison, WI: University of Wisconsin Press.-松野弘訳『自然の権利:環境倫理の文明史』(筑摩書房,1999

Sessions, Geroge, ed. (1995). Deep ecology for the 21st century. Boston: Shambhala.

Warren, Karen (1998). Introduction: Ecofeminism. In M. Zimmerman (Ed.), Environmental philosophy: From animal rights to radical ecology. Upper Saddle River, NJ: Prentice Hall.

Zimmerman, M., ed. (1998).
Environmental philosophy: From animal rights to radical ecology. Upper Saddle River, NJ: Prentice Hall.



エコサイコロジーの知的基盤 その1

 エコサイコロジーの知的基盤を形成しているものとして、ヒバード(Hibbard, 2003)は、環境保護運動とそこから派生した環境学の諸分野、特に環境神学(ecotheology)、環境哲学(ecophilosophy)、ディープエコロジー (deep ecology)、エコフェミニズム(ecofeminism)を挙げている。

1. 環境保護運動
 エコサイコロジーは、最も広い意味で言うと、近代の工業文明が環境危機を引き起こしているという認識に応じて1960年代より展開されてきた環境保護運動から生まれ出たものといえる。フォックス(Fox, 1995) によると、環境運動の始まりは、1962年に出版されたレイチェル・カーソン(Rachel Carson) の『沈黙の春(Silent Spring)』が環境問題への大衆的な関心を呼び起こしたことがきっかけだという。環境保護運動の揺るぎない貢献は、深刻な環境問題が起こっているという事実を公的な議論の最前線へと推し進めたことである。その認識は、専門の学問領域が環境問題に取り組む勢いを与え、大衆の意識を〈緑化〉することに貢献し、後に出現するエコサイコロジーにとって必要となる知的基盤を築くことになった。

2. 環境神学(ecotheology)
 リン・ホワイトJr.Lynn White Jr.) は1967年に発表した衝撃的な論文『現在の生態学的危機の歴史的根源 (The Historical Roots of Our Ecological Crisis)』で、恥ずかしげもないほど人間中心的なユダヤ-キリスト教的世界観が、自然を無条件に支配することや開発することを認めていると非難した。ホワイトの論文はユダヤ-キリスト教的伝統における環境保護の意味合いについての議論をもたらし、環境神学という新分野の誕生を促した。環境神学者たちは、アジアや固有民族の宗教的伝統と同様に、キリスト教やユダヤ教にも環境に対する責任を負わせるため、特にその霊性的コミュニティを自然やすべての生き物を含むまで拡大することによって、彼ら自身のユダヤ-キリスト教的伝統を追求してきた。

3. 環境哲学(ecophilosophy)
 神学の緑化が近代の自然に対する認識や姿勢を変化させることに重大や役割を担ったことと同様に、哲学の緑化も等しく重要なものであった。人間の自然への倫理的関係性は、重大な哲学的議論の論点ではなかった。それが「道徳的な立場は人間とともに始まり、人間とともに終わるのではない」という哲学上の問題として議論に立ち上ってきたのは、「1970年代になって、環境への関心が高まると同時に、哲学者たちも今日的な課題に対して、自分たちの能力をかつてないほど熱心に活用したいという気持ちにかられ、新しい分野としての「環境哲学」をつくり出し」てからのことである。1 ジマーマン(Zimmerman, 1998)によると、環境保護運動は非常に説得力を持っていたので、環境問題に関心を持つ新世代の哲学者が倫理的責任感の問題を含む人間の自然との関係性の根本的な問題を提起することに影響を与えたという。 


〈註〉
1. Nash, R 1989, pp.122-123. 松野訳の日本語版を参照。


人間-自然関係の精神病理 その10:解離 (2)

人間-自然関係の精神病理 その
人間-自然関係の精神病理 その
人間-自然関係の精神病理 その
人間-自然関係の精神病理 その4
人間-自然関係の精神病理 その5

人間-自然関係の精神病理 その6
人間-自然関係の精神病理 その7
人間-自然関係の精神病理 その8
人間―自然関係の精神病理 その9

解離 (dissociation) (2)

 西洋の心理における人間と自然との解離的分裂は、霊性的なもの(spiritual) と自然的なもの (natural) との分裂と深く関わりがある。それはまるで私たちが2つの自己を持っているかのようである。ひとつは霊性的な自己で、高次の領域へと上昇するものとして考えられている。もうひとつは、肉体感覚や感情を含む自然的な自己で、それは私たちを下降させるものである。こうした2元的な価値を含んだ観念のため、霊性的(人間的)なものは常に自然的(動物的)なものよりも優れているとみなされる。3

 また、こうした分裂だけでなく、これら2つの領域や傾向が対立することもある。救済や悟りを得るため、霊性的なものになるには、自らの〈下級〉な動物的本能や理性のない感情を克服し、肉体的なエゴを征服しなければならない、ということを宗教は説いてきた。主に自然に従い、模倣することを基本とする錬金術の伝統では、この種の特別な霊性的作業を「自然に反する作業 (the opus contra naturam) と呼んでいた。
 
 人間の霊性的価値と自然の実態、肉体、感覚との解離的分裂は、宗教的世界観の崩壊を生き残り、フロイトの精神分析における純粋な心理的パターンとして再び登場することになる。この場合は、主に人間の意識である自我 (ego) と、身体に基づいた動物的本能や衝動であるイド (id) の対立である。自我は意識を獲得して真の人間になるために、イドと闘わなくてはならない。文化の集合的レベルでは、この自然との対立した関係が「文化への不満 (Das Unbehagen in der Kultur)」 ―これは、私たちが文明の可能性のために払わざるをえなかった不可避の犠牲であった― をもたらした、とフロイトは考えた。
 
 西洋人の自己概念におけるこの解離的分裂が、生態学的に悲惨な結果を招いたことは明白である。私たちが精神的にも霊性的にも自らの自然 ―身体、本能、感情など― から切り離されていると感じるならば、その分離は外部へとも投影される。その結果、私たちは自分自身が大いなる自然の世界や地球から切り離されていると感じるのである。霊性的に向上するため、または真の人間になるために、私たちが自分の身体の自然な感情や衝動と闘い、抑制し、統制する必要があると信じるのならば、これと同じような対立と制御の課題も外部へと投影されて、西洋の「自然の征服」というイデオロギーを支持するものになる。

 この歪んだイメージは、次のような事実に反するものである。私たち人間は、実際に、自然から切り離された存在ではないし、自然よりも優れた存在ではない。また、自然を支配する権利、日々の糧に必要なものを超えて利用する権利を持たない。私たちは地球の一部である ―私たちは地球上に住んでいるのではなく、地球に住んでいる。私たちは地球という巨大な生命体の体内の細胞である。もし、ある細胞集団が体内の他のエネルギーシステムを支配し、解体しようとするならば、生命体は健全に機能し続けることができなくなる。

 霊性的なものと自然的なものが対立するという考えや、霊性はつねに自然を超越しなければならないという考えは、多神教や伝統的なアニミズム社会には共有されていない、文化的な相対概念である。世界中の先住民文化では、自然世界は精霊の領域であり、聖なるものとみなされている。つまり、自然的なものは霊性的なものと考えられている。この信念から、自然を敬う姿勢、バランスのとれた関係を維持しようとする願望、未来の世代や生態系の未来の健康 ―つまり、持続可能性― を考慮することの必要性への直感的理解が追随してくるのである。自分たちとは異なる世界観を理解し敬うことは、霊性と自然との解離に執着する西洋にとって最適な解毒剤となるかもしれない。


〈註〉
3.その2」でレビューした、人間優越コンプレックスと大いに関係がある。


〈参考文献〉

Metzner,
Ralph (1999). Green psychology: Transforming our relationship to the earth. Rochester, VT: Park Street Press.

人間-自然関係の精神病理 その9:解離 (1)

人間-自然関係の精神病理 その
人間-自然関係の精神病理 その
人間-自然関係の精神病理 その
人間-自然関係の精神病理 その4
人間-自然関係の精神病理 その5

人間-自然関係の精神病理 その6
人間-自然関係の精神病理 その7
人間-自然関係の精神病理 その8

解離 (dissociation) (1)

 メツナーが最後に挙げる診断メタファーは解離 (dissociation) である。無意識の創造の抑圧を重要視するフロイト派や後フロイト派の考えとは対照的に、近年、解離の概念への関心が復活してきている。心的外傷後ストレス障害(PTSD: post-traumatic stress disorder) や多重人格障害(MPD: multiple personality disorder) 1 のような解離性障害の診断が頻繁になされるようになっている。解離は、実際、ごく普通の自然な認知機能である。何かに意識を集中させるという単純な行為にも、注意を向けていないものへの認識を排除する、ある程度の解離が含まれている。また解離は、外的世界の知覚を遮断し、内なるイメージ、記憶、印象に注意を向ける、催眠やトランス状態の際に役割を果たす。

 フロイト派の見解では、抑圧された無意識(イド)に内在する精神的要素(思考、イメージ、感情など)は「快楽原則」に従って機能する、まとまりを欠いた、原始的で、幼稚なものである。一方、顕在意識(ego) は「現実原則」に従って機能し、合理的にまとまりのあるかたちで、現実の要求に順応することができるものである。ジャネ(Pierre Janet) やヒルガード(Ernest Hilgard) らのような分離説派の見解によると、解離とは、等しくまとめられた合理的かつ現実とつながりのある意識の織りなす束が〈縦〉に分割したものだという。例えば、痛切な体験における精神的、感情的要素は解離することがあり、その結果、何を見て何を思ったかは覚えていても、何を感じたかは覚えていない。逆に、ある種の刺激によってパニックの感情が引き起こされることがあっても、起こった出来事の認知的記憶は解離し続けている、ということがある。
 
 解離性障害の中で最も極端な形である多重人格障害は、「自我状態」や「分身」と呼ばれる2つ以上の同一性が形成されるものである。多重人格者は、自分自身と別の名前や別の人格特性との連続性を維持する。ヒルガードが言うように、「隠れた(あるいは解離した)人格は、時に表に出た人格よりも正常で、精神的にも健全である。これは、1次過程の思考によって大きく統制された原始的な無意識であるという考えよりも、正常な意識の分裂という考えのほうがうまく一致する」。2

 「エコロジカルな無意識」の抑圧という考えよりも、この解離や分裂の概念のほうが、環境に関する人間の集団的病理のより正確で、より有効な理解を与えてくれる、とメツナーは言う。西洋の工業社会の文化全体が、そのエコロジカルな基層から解離している。それは、地球の複雑性や相互依存の繊細な網の目に関する知識や理解が、私たちの心の忘れさられた基底に漠然と不完全なかたちで留まっているということではない。私たちは環境に与える影響に関しての知識を持っているし、土地、水、大気の汚染や荒廃を認識することもできる。しかし、私たちはそのことに対して注意を払っていないし、持っている知識を体験と結びつけていない。もっと正確に言えば、私たちが関与する政治、経済、教育の制度すべてにこの解離が組み込まれているため、人は自然世界に対して適切に対応できないと感じている。


〈註〉
1.DSM-Ⅳからは、「解離性同一性障害(DID: Dissociative Identity Disorder)」と名称変更されている。
2.Metzner 1999, pp.94-95 より引用