エコサイコロジーの定義と境界 その4

エコサイコロジーの定義と境界 その1
エコサイコロジーの定義と境界 その2

エコサイコロジーの定義と境界 その3

 ヒバード(Hibbard, 2003)は、何がエコサイコロジーであり、何がエコサイコロジーではないのかを明確にするには、ロー
ザックのオリジナルの定義に立ち返るべきであると主張する。つまり、新しい定義や名称がローザックの2つの目的 ― 心理学のエコロジー化、エコロジーの心理学化 ― の両方、あるいはどちらか一方に一致するのであれば、それはエコサイコロジーであるし、一致しなければ、別の分野であると区分することができる。さらに、ヒバードはそれぞれのアプローチの深度(浅い/深い)をエコサイコロジーか否かの判断基準にすることを提案する。知的基盤の項で述べたように、エコサイコロジーはディープエコロジーの思想を取り入れているため、生態系の危機と関連のある人間と自然との相互関係性に対して深い問いかけをすることは不可欠である。例えば、その2で述べたハワード(Howard, 1997)のエコロジカル・サイコロジーは、西洋的世界観や心理学の基本的前提に対して疑問を持っていないので、そのアプローチは浅いといえる。一方、ウインターWinter, 1996)は西洋的世界観の前提には疑問を呈してはいるが、心理学の前提への疑問は不十分である。

 しかし、ローザックはエコサイコロジーを「新たな統合(emerging synthesis)」13 であると定義しており、後に「エコサイコロジーは多数の意見とのオープンな対話を意図している」14 と述べていることに注意する必要がある。つまり、ローザック自身は様々な情報源からの知識にオープンであり、それを歓迎さえしている。しかし、それらの情報源が正当なもの、つまりエコサイロジーの目的を促進するものである場合のみ認められる。

 エコサイコロジーは心理学の新しい下位区分(subdiscipline) なのか、という問題に関して、ローザックは次のように述べている。「われわれ〔the Bay Area Ecopsychology Group〕はエコサイコロジーを新たな治療原理、または新たなイデオロギー陣営とは捉えていない。われわれの目的は、地球との持続可能な関係を築くための取り組みに取って代わることではなく、それを補うことである」。15 メツナー (Metzner)もこの点に関して次のように述べている。
この分野[エコサイコロジー]に属するわれわれは、心理学の新しい下位区分の創設や、臨床心理学、社会心理学、発達心理学など他の分野への参入を主張するつもりはない。むしろ、われわれは、心理学とは何か、また第一に何をするべきだったのかを根本から再想定(re-envisioning)すること ― 人間生活のエコロジカルな文脈を考慮に入れる改革 ― について話している。16
このことから、メツナーはエコサイコロジーよりも「グリーン・サイコロジー(green psychology)」という名称を好んで使用している。グリーン・サイコロジーの方が心理学の全原理の緑化という意味合いを表していて、新たな心理学の下位区分の創設という誤認を避けられるからである。


 ヒバードは、1992年に出版されたローザック著『The Voice of the Earth』は、エコサイコロジーの名称、定義、そしてそのヴィジョンが明確に述べられたという点で最も影響力があり、ローザックによるオリジナルの定義を支持することが必須であると主張する。つまり、新たになされる定義はローザックのものに敬意を表し、またその立場を明確に線引きする責任があると述べる。


〈註〉 
13. Roszak 1995, pp.4-5.
14. Roszak 1997
15.Roszak 1994, 1
16. Metzner 1999, p.2


〈参考文献〉
Bell, P., T. Greene, J. Fisher, and A. Baum (1996). Environmental Psychology. Orlando, FL: Harcourt Brace.

Clinebell, Howard (1996). Ecotherapy: Healing ourselves, healing the earth. Minneapolis, NM: Fortress Press.

Gifford, Robert (1997). Environmental psychology: Principles and practice. Boston: Allyn and Bacon.

Hibbard, Whit (2003). Ecopsychology: A review. The Trumpeter 19(2): 23-58

Howard, George S. (1997). Ecological psychology: Creating a more earth-friendly human nature. Notre Dame:
University of Notre Dame Press.

Kidner, David W. (1994). Why psychology is mute about the environmental crisis. Environmental Ethics 16: 359-376

Metzner, Ralph (1999). Green psychology: Transforming our relationship to the earth. Rochester, VT: Park Street Press.

Roszak, Theodore (1992/2001). The Voice of the earth: An exploration of ecopsychology (2nd ed.) Grand Rapids, MI: Phanes Press.

Roszak, Theodore (1994). The greening of psychology: The Ecopsychology Newsletter 1(1): 6.

Roszak, Theodore (1995). Where psyche meets Gaia. In T. Roszak, M. Gomes, and A. Kanner (Eds.), Ecopsychology:

Restoring the earth, healing the mind (pp.1-17). San Francisco: Sierra Club Books.

Stokols, D., and I. Altman, eds. (1987). Handbook of environmental psychology. New York: Wiley.

Winter, Deborah D.N. (1996). Ecological psychology: Healing the split between planet and self. New York: Harper Collins.


エコサイコロジーの定義と境界 その3

エコサイコロジーの定義と境界 その1
エコサイコロジーの定義と境界 その2


 次に、エコサイコロジーと「環境心理学(environmental psychology)」にはどのような違いがあるのかをみてみよう。名称の問題の項でも述べたように、両者はその名称から混同されることがあるが、それぞれの定義は異なり、別の分野であると捉えなけらばならない。


 キドナー(David W. Kidner, 1994)によると、環境心理学とは「主としてストレス、公害、騒音、都市化、過密化など、特定の環境要因が個人に与える影響に関するものである」。6 一方、エコサイコロジーの一番の関心事は、人間が環境に与える影響であり、正反対である。メツナー (Ralph Metzner,1999)はこの点を次のようにまとめている。「エコサイコロジーは、主に制度的環境が心理状態に与える影響を扱う環境心理学の変種ではない」7 また、フィッシャー(Andy Fisher, 2002)は、エコサイコロジーは環境心理学が持つ従来の科学的世界観や方法論、技術主義的な精神、人間中心主義に異議を唱えるものであり、環境心理学よりもさらに急進的であると述べている。ローザックは自身のエコサイコロジーの定義に関する最近の議論の中で、「“環境心理学”と呼ばれる十分に発達した分野」を知ってはいるが、環境保護論者と心理学者との対話を支えるには不十分であると述べている。なぜなら、環境心理学の関心は「都市生活の建築的環境であり、私たちの自然からの疎外に関して言えば、それは解決というより問題である」。8

 次に挙げる環境心理学の3つの文献のレビューも、キドナー、メツナー、フィッシャー、ローザックによる評価を支えるものになるだろう。例えば、ストコルスとアルトマン(D. Stokols & I. Altman, 1987)は環境心理学を「社会物理的環境との関係における人間の行動と幸福(well-being)の研究」と定義している。9 ベルら(P. Bell et al, 1996)は、環境心理学の主要な関心は「行動や心的状態への決定要因や影響力としての環境」であると述べている。10 また、ギフォード(R. Gifford, 1997)は「私たちの自然環境との関係を改善することや…自然資源の管理」11 に関心を示してはいるが、環境心理学を「個人と物理的環境との相互作用の研究」と定義している。12 これら3つの文献は環境心理学を従来の科学的パラダイムに確固として位置づけ、基本的前提に深い問いを投げ掛けたり、それに挑もうとしていない。これはエコサイコロジーの姿勢と正反対であるといえる。しかし、環境心理学がエコサイコロジーにとって何の重要性も持たないということではないし、実際、多くの学ぶべき研究がなされており、両者の相補的な発展が期待できるであろう。


〈註〉
6. Kidner 1994, p.368
7. Metzner 1999, p.183
8. Roszak 1992/2001, p.323
9. Stokols and Altman 1987, p.1
10. Bell et al. 1996, p.4
11. Gifford 1997, p.1,4
12. Gifford 1997, p.1


エコサイコロジーの定義と境界 その2

エコサイコロジーの定義と境界 その1

 その1で確認したように、ローザックの定義では、エコサイコロジーとは「心理学的なものと生態学的なものとの新たな統合」であった。しかし、この定義を拡大したり、改変しているものや、表面上はローザックのものと異なる目的や姿勢を示すため、新たに名前をつけているものもある。ではここで、3つの文献を例に挙げ、それぞれがローザックによる定義とどのような違いがあるのかをみていきたい。

1.ウィンター(Deborah Du Nann Winter)の『Ecological Psychology(エコロジカル・サイコロジー)』
 
 タイトルから判断すれば、ウィンター著の『Ecological Psychology: Healing the Split Between Planet and Self』はロ
ーザックのオリジナルの定義や主張に一致したエコサイコロジーと捉えられるかにみえる。しかし、ウィンターの考えはローザックに由来するものではない。ウィンターは「心理学の未来への新しい方向性、エコロジカル・サイコロジーを提案」したいと述べ、それを「持続可能な世界を築くための、物理的、政治的、スピリチュアルな文脈における人間の経験と行動の研究」であると定義している。その中心にある問題は「ますます壊れ行く生態系でどのように生きてゆくのか」である。2 ローザックのエコサイコロジーとウィンターのエコロジカル・サイコロジーとの主要な違いは、ローザックが従来の心理学を脱構築し、その全体をエコロジカルな文脈と感受性で改正することを主張しているのに対し、ウィンターは環境問題の理解と解決のために、心理学の主要学派の理論や方法論を融合して適用することを主張しているところにある。

2.ハワード(George S. Howard)の『Ecological Psychology(エコロジカル・サイコロジー)』

 ハワード著の『Ecological Psychology: Creating a More Earth-Friendly Human Nature』も、一見するとエコサイコロジ
ーと同じにみえる。しかし、ハワードは自身のエコロジカル・サイコロジーを定義しておらず、ローザックのエコサイコロジーやウィンターのエコロジカル・サイコロジーとも関連付けてはいない。ハワードは自身のエコロジカル・サイコロジーの主要目的を「地球にやさしい人間性の促進を意図した、我われの考え方や行動のし方における建設的な変化を育成すること」としている。3

3.クラインベル(Howard Clinebell)の『Ecotherapy(エコセラピー)』

 クラインベル著の『Ecotherapy: Healing Ourselves, Healing the Earth』もタイトルは上記の2つの例と似ている。しかし、クラインベルはエコサイコロジーとエコセラピーの概念の違いを次のように明らかにしている。「エコセラピーは、地球との健全な相互作用によって育まれる癒しと成長のことを言う」。一方、エコサイコロジーは「いわゆる“心理学の緑化”」を指す。4 エコサイコロジーが心理学の緑化を指すものであるという点は正しいが、クラインベルはエコサイコロジーが有効なエコセラピー的要素を持つことを認めていない。さらにクラインベルは、エコロジーの心理学化はサイコエコロジー(psycoecology)という分野のものであると断言しているが、これはローザックの主張を誤解している。


 ウィンターは自身のエコロジカル・サイコロジーをローザックのエコサイコロジーとは距離を置いたものとし、ハワードは単にその関連性に触れず、クラインベルはエコサイコロジーへの恭順を示さないだけではなく、誤った定義をすることによってローザックの定義の半分を消してしまっていると考えられる。ウィンターとハワードのエコロジカル・サイコロジーはそのアプローチに浅さがみられるが、心理学を用いて環境問題にポジティヴな影響を与えようとすることは、ローザックの二つめの目的 ―エコロジーの心理学化― に忠実である。また、ローザックは定義上、「心理療法的なものや精神医学的なものも含め」ようとしており、エコセラピーをエコサイコロジーの中へ組み入れている。5
 
〈註〉
2. Winter 1996, p.283
3. Howard 1997, p.1
4. Clinebell 1996, p.xxi
5. Roszak 1995, p.4



エコサイコロジーの定義と境界 その1

 エコサイコロジーは、一般に受け入れられた明確な定義を持っていない。そのため、(名称の問題の項でも述べたように)エコサイコロジーやそれに近い名称を名のるものであっても、それぞれが持つ定義には相違がみられ、エコサイコロジーとは異なる分野との混同を招くことがある。ヒバード(Whit Hibbard, 2003) は、エコサイコロジーの定義と他の分野との境界に関する問題について論じており、ここでは彼の議論をレビューしていきたい。

 ヒバードは、以下の疑問に答える形でエコサイコロジーの定義を明らかにしようとしている。
エコサイコロジーとは何か、つまりどうのように定義されるのか; エコサイコロジーは「エコロジカル・サイコロジー(ecological psychology)」、「サイコエコロジー (psychoecology)」、「エコセラピー (ecotherapy)」、「グリーン・サイコロジー (green psychology)」と同じなのか;エコサイコロジーは「環境心理学 (environmental psychology)」とどのように違うのか;エコサイコロジーは心理学の新しい下位区分(subdiscipline) なのか。

 まず始めにエコサイコロジーの提唱者であるセオドア・ローザック(Theodore Roszak)によるオリジナルの定義からみてみよう。1992年の著作『The voice of the earth』でローザックは初めて“サイコロジー(心理学)”に“エコ”の接頭語を付け、それには「心理学のエコロジー化(ecologizing psychology)」と「エコロジーの心理学化(psychologizing ecology)」という2重の目的があると宣言している。ローザックは一つめの目的に関して、もし心理学が環境危機に対して建設的な影響を与えるのならば、従来の心理学の理論と実践をエコロジカルな文脈で捉え直すことが必要不可欠だと主張する。二つめの目的に関しては、環境保護運動も「新たな心理的感受性」を必要としており、いかにして私たちの環境破壊的な行動を変えようという気にさせるのかなど心理学に学ぶべきことが多いと述べる。それから3年後の1995年に出版されたアンソロジー『Ecopsychology: Restoring the Earth, Healing the Mind』の中で、ローザックは次のように述べ、独自の定義を強化している。
エコサイコロジーは、この心理学的なもの(ここには心理療法的なものや精神医学的なものも含めようとしている)と生態学的なものとの新たな統合に対して最もよく使われる名称である。…[他にもいくつかの名称が提案されているが]名前は何であれ、エコロジーは心理学を必要とし、心理学はエコロジーを必要とする、という基本的前提は同じである。1

つまり、ローザックにとって、エコサイコロジーとは、心理学的なものと生態学的なものとの新たな統合(the emerging synthesis of the psychological and the ecological)である。


〈註〉
1. Roszak 1995, pp.4-5.


エコサイコロジー:その名称の問題

 エコサイコロジーとは、心理学的なものと生態学的(エコロジー)なものとの統合を試みる新たな学問分野に対してローザック(Theodore Roszak) によって名付けられた名称である。エコサイコロジーに代わる名称として、ローザックは、『サイコエコロジー: psychoecology』 (Greenway)、『エコセラピー: ecotherapy』 (Clinebell)、『地球のセラピー: global therapy』、『グリーンセラピー: green therapy』、『地球中心のセラピー: Earth-centered therapy』、『リ・アーシングre-earthing』、『自然に基づいた心理療法: nature-based psychotherapy』、『シャーマニック・カウンセリング: shamanic counseling』、『森林セラピー: sylvan therapy』を挙げている。ローザックいわく、「名前は何であれ、エコロジーは心理学を必要とし、心理学はエコロジーを必要とする、という基本的前提は同じである。」1 しかし、それぞれの名称が持つ定義は、ローザックの提唱する定義と異なるものもあるので注意が必要である。

 スカル(John Scull, 1999) は、エコサイコロジーとよく似た名称であるが区別する必要のある分野として以下のものを挙げる。

1. Ecological psychology: 生態(学的)心理学
この名称は主に「アフォーダンス理論」で知られるギブソン(J.J. Gibson)やリード(E.S. Reed) らの知覚心理学や進化論を指すものである。しかし、シューワル(L. Sewall) は、知覚心理学の学説がいかにエコサイコロジーと関連しているかを論じており、この分野がエコサイコロジーの発展に寄与している点も少なくない。ウィンター(D.Winter) の著作Ecological Psychology: Healing the split between planet and self』は、タイトルには生態心理学の名称が用いられてはいるが、副題が示すように、内容はエコサイコロジーに近いものである。

2. Environmental psychology: 環境心理学
環境心理学は、人間と「環境」との相互関係を対象とする心理学の1分野である。この分野が扱う「環境」とは、地球・自然環境だけではなく、住環境や都市環境、労働環境やパーソナルスペースといった人間によって創られる社会環境も含む。従来、この分野が焦点を当ててきたのは、後者の「環境」である。しかし、近年は地球環境問題や環境配慮行動へのアプローチを試みる環境心理学の研究が大きく展開されており、エコサイコロジーの領域とオーバーラップすることも増えてきている。

3. Deep Ecology: ディープエコロジー
前回の項で述べたように、ディープエコロジーはエコサイコロジーの知的基盤を成しており、多くの共通項がみられる。特にネス(A. Naess) の「エコロジカルな自己(ecological self)」や「拡大自己実現(Self-Realization)」、またそこから派生したフォックス(W. Fox) の「トランスパーソナル・エコロジー(Transpersonal ecology) は心理学的な理論であり、エコサイコロジーの発展に大きな影響を与えている。しかし、ディープエコロジーが哲学的立場に立脚していることや社会運動としての性格を強調する点において、エコサイコロジーとの違いもみられる。ジョアンナ・メイシー(Joanna Macy)やジョン・シード(John Seed) らは自身の活動をディープエコロジーと称しているが、エコサイコロジーの実践とも非常に
近いと言える。


〈註〉
1. Roszak1995, pp.4-5.

〈参考文献〉
Clinebell, Howard (1996). Ecotherapy: Healing ourselves, healing the earth. Minneapolis, NM: Fortress Press.

Fox, Warwick (1990). Toward a transpersonal ecology: Developing new foundations for environmentalism. Boston: Shambhala.

Greenway, Robert (2000). Ecopsychology: A personal history.
http://www.ecopsychology.org/journal/gatherings/personal.htm

Naess, Arne (1995). Self-Realization: An ecological approach to being in the world. In A. Drengson & Y. Inoue (Eds.), The Deep ecology movement: An introductory anthology (pp.13-30). Berkeley, CA: North Atlantic Books.

Reed, Edward S. (1996). Encountering the world: Toward an ecological psychology. New York: Oxford University Press.

Roszak, Theodore (1992/2001). The Voice of the earth: An exploration of ecopsychology (2nd ed.) Grand Rapids, MI: Phanes Press.


Roszak, Theodore (1995). Where psyche meets Gaia. In T. Roszak, M. Gomes, and A. Kanner (Eds.), Ecopsychology: Restoring the earth, healing the mind (pp.1-17). San Francisco: Sierra Club Books.

Scull, John (1999). Ecopsychology: Where does it fit in psychology?
http://members.shaw.ca/jscull/ecointro.htm

Seed, J., Macy, J., Fleming, P. & Naess, A. (Eds.). Thinking like a mountain: Toward a council of all beings. Philadelphia: New Society.

Sewall, Laura (1995). The skill of ecological perception. In T. Roszak, M. Gomes, and A. Kanner (Eds.), Ecopsychology: Restoring the earth, healing the mind (pp.201-215). San Francisco: Sierra Club Books.

Sewall, Laura (1999). Sight and sensibility: The ecopsychology of perception. New York: Jeremy P. Tarcher/Putnam.

Winter, Deborah (1996). Ecological psychology: Healing the split between planet and self. New York: Harper Collins.


エコサイコロジーの知的基盤 その2

エコサイコロジーの知的基盤 その1

4.
ディープエコロジー (deep ecology)

 ジョージ・セッションズ(George Sessions) によると、ディープエコロジーは 「1960年代のエコロジー革命と呼ばれる時期における哲学的かつ科学的な社会・政治運動」として発生した。ディープエコロジーが主に重視しているのは、「近代の工業的に発展した社会の環境破壊的な進路を方向転換する基礎として、大きなパラダイムシフト ―認識、価値観、ライフスタイルの転換― を引き起こすことである」。2

セッションズは、ディープエコロジーを特徴づけるものとして次のものを挙げている。
(a)人間中心主義から生態系中心主義(ecocentrism)、生命圏平等主義(biospherical egalitarianism)、社会運動への移行
(b)深い問いかけを積極的に行うこと、つまり、生態的危機の原因を探る上で基本的前提となっているものの正当性を疑うこと
(c)文明は自然を〈超越〉し、自然から〈進化した〉ものだと考える「第二の自然」的観点を拒否すること

5. エコフェミニズム(ecofeminism)
 エコフェミニズムは、女性と自然との関連性に対する意識の高まりとともに1970年代に発生した。エコフェミニズムの重要な見識は、ウォレン(Karen Warren) によると、「女性の支配と自然の支配には重大な関係がある」ということである。3 問題は、ディープエコロジーが主張する人間中心主義ではなく、もっと厳密に言えば、女性や自然を搾取することを認める抑圧的で家父長的な社会構造や階層制にみられる男性中心主義(androcentrism) であると主張する。


 以上みてきたように、環境保護運動、環境神学、環境哲学、ディープエコロジー、エコフェミニズムがもたらしたものは、環境保護の考えや認識との関係における人間中心的、男性中心的、家父長的、階層的、西洋のユダヤ-キリスト教的世界観への系統だった批判と脱構築である。そしてこれは以下のことを引き起こした。
(a)一般の人々の生態学的危機への関心を高めること(環境保護運動)
(b)神の創造物や霊性的コミュニティの一部としてすべての自然を捉えなおすことと、キリスト教の理念として健全なスチュアード精神を形成すること(環境神学)
(c)道徳的配慮や自然の権利を動物、植物、生態系、ガイアを含むより大きなコミュニティまで拡大すること(環境哲学)
(d)支配的な西洋の人間中心、第二の自然的世界観を分析し、生態系中心、平等主義的世界観の可能性を議論すること(ディープ エコロジー)
(e)自然の侵害と、家父長的な支配階層制における女性の侵害との関連性に対する意識を高めること(エコフェミニズム)

これら環境学の諸分野が形成した知的基盤が、心理学者が自身の専門分野を生態学的危機と関連づけて研究し、人類の心理的健康と惑星の健康とは密接に結びついた不可分のものであるという命題を打ち立てる要因となった。


〈註〉
2.Sessions 1995, p.ix
3.Warren 1998, p.264

〈参考文献〉
Hibbard, Whit (2003). Ecopsychology: A review. The Trumpeter 19(2): 23-58

Nash, Roderick F. (1989). The rights of nature: A history of environmental ethics. Madison, WI: University of Wisconsin Press.-松野弘訳『自然の権利:環境倫理の文明史』(筑摩書房,1999

Sessions, Geroge, ed. (1995). Deep ecology for the 21st century. Boston: Shambhala.

Warren, Karen (1998). Introduction: Ecofeminism. In M. Zimmerman (Ed.), Environmental philosophy: From animal rights to radical ecology. Upper Saddle River, NJ: Prentice Hall.

Zimmerman, M., ed. (1998).
Environmental philosophy: From animal rights to radical ecology. Upper Saddle River, NJ: Prentice Hall.



エコサイコロジーの知的基盤 その1

 エコサイコロジーの知的基盤を形成しているものとして、ヒバード(Hibbard, 2003)は、環境保護運動とそこから派生した環境学の諸分野、特に環境神学(ecotheology)、環境哲学(ecophilosophy)、ディープエコロジー (deep ecology)、エコフェミニズム(ecofeminism)を挙げている。

1. 環境保護運動
 エコサイコロジーは、最も広い意味で言うと、近代の工業文明が環境危機を引き起こしているという認識に応じて1960年代より展開されてきた環境保護運動から生まれ出たものといえる。フォックス(Fox, 1995) によると、環境運動の始まりは、1962年に出版されたレイチェル・カーソン(Rachel Carson) の『沈黙の春(Silent Spring)』が環境問題への大衆的な関心を呼び起こしたことがきっかけだという。環境保護運動の揺るぎない貢献は、深刻な環境問題が起こっているという事実を公的な議論の最前線へと推し進めたことである。その認識は、専門の学問領域が環境問題に取り組む勢いを与え、大衆の意識を〈緑化〉することに貢献し、後に出現するエコサイコロジーにとって必要となる知的基盤を築くことになった。

2. 環境神学(ecotheology)
 リン・ホワイトJr.Lynn White Jr.) は1967年に発表した衝撃的な論文『現在の生態学的危機の歴史的根源 (The Historical Roots of Our Ecological Crisis)』で、恥ずかしげもないほど人間中心的なユダヤ-キリスト教的世界観が、自然を無条件に支配することや開発することを認めていると非難した。ホワイトの論文はユダヤ-キリスト教的伝統における環境保護の意味合いについての議論をもたらし、環境神学という新分野の誕生を促した。環境神学者たちは、アジアや固有民族の宗教的伝統と同様に、キリスト教やユダヤ教にも環境に対する責任を負わせるため、特にその霊性的コミュニティを自然やすべての生き物を含むまで拡大することによって、彼ら自身のユダヤ-キリスト教的伝統を追求してきた。

3. 環境哲学(ecophilosophy)
 神学の緑化が近代の自然に対する認識や姿勢を変化させることに重大や役割を担ったことと同様に、哲学の緑化も等しく重要なものであった。人間の自然への倫理的関係性は、重大な哲学的議論の論点ではなかった。それが「道徳的な立場は人間とともに始まり、人間とともに終わるのではない」という哲学上の問題として議論に立ち上ってきたのは、「1970年代になって、環境への関心が高まると同時に、哲学者たちも今日的な課題に対して、自分たちの能力をかつてないほど熱心に活用したいという気持ちにかられ、新しい分野としての「環境哲学」をつくり出し」てからのことである。1 ジマーマン(Zimmerman, 1998)によると、環境保護運動は非常に説得力を持っていたので、環境問題に関心を持つ新世代の哲学者が倫理的責任感の問題を含む人間の自然との関係性の根本的な問題を提起することに影響を与えたという。 


〈註〉
1. Nash, R 1989, pp.122-123. 松野訳の日本語版を参照。


人間-自然関係の精神病理 その10:解離 (2)

人間-自然関係の精神病理 その
人間-自然関係の精神病理 その
人間-自然関係の精神病理 その
人間-自然関係の精神病理 その4
人間-自然関係の精神病理 その5

人間-自然関係の精神病理 その6
人間-自然関係の精神病理 その7
人間-自然関係の精神病理 その8
人間―自然関係の精神病理 その9

解離 (dissociation) (2)

 西洋の心理における人間と自然との解離的分裂は、霊性的なもの(spiritual) と自然的なもの (natural) との分裂と深く関わりがある。それはまるで私たちが2つの自己を持っているかのようである。ひとつは霊性的な自己で、高次の領域へと上昇するものとして考えられている。もうひとつは、肉体感覚や感情を含む自然的な自己で、それは私たちを下降させるものである。こうした2元的な価値を含んだ観念のため、霊性的(人間的)なものは常に自然的(動物的)なものよりも優れているとみなされる。3

 また、こうした分裂だけでなく、これら2つの領域や傾向が対立することもある。救済や悟りを得るため、霊性的なものになるには、自らの〈下級〉な動物的本能や理性のない感情を克服し、肉体的なエゴを征服しなければならない、ということを宗教は説いてきた。主に自然に従い、模倣することを基本とする錬金術の伝統では、この種の特別な霊性的作業を「自然に反する作業 (the opus contra naturam) と呼んでいた。
 
 人間の霊性的価値と自然の実態、肉体、感覚との解離的分裂は、宗教的世界観の崩壊を生き残り、フロイトの精神分析における純粋な心理的パターンとして再び登場することになる。この場合は、主に人間の意識である自我 (ego) と、身体に基づいた動物的本能や衝動であるイド (id) の対立である。自我は意識を獲得して真の人間になるために、イドと闘わなくてはならない。文化の集合的レベルでは、この自然との対立した関係が「文化への不満 (Das Unbehagen in der Kultur)」 ―これは、私たちが文明の可能性のために払わざるをえなかった不可避の犠牲であった― をもたらした、とフロイトは考えた。
 
 西洋人の自己概念におけるこの解離的分裂が、生態学的に悲惨な結果を招いたことは明白である。私たちが精神的にも霊性的にも自らの自然 ―身体、本能、感情など― から切り離されていると感じるならば、その分離は外部へとも投影される。その結果、私たちは自分自身が大いなる自然の世界や地球から切り離されていると感じるのである。霊性的に向上するため、または真の人間になるために、私たちが自分の身体の自然な感情や衝動と闘い、抑制し、統制する必要があると信じるのならば、これと同じような対立と制御の課題も外部へと投影されて、西洋の「自然の征服」というイデオロギーを支持するものになる。

 この歪んだイメージは、次のような事実に反するものである。私たち人間は、実際に、自然から切り離された存在ではないし、自然よりも優れた存在ではない。また、自然を支配する権利、日々の糧に必要なものを超えて利用する権利を持たない。私たちは地球の一部である ―私たちは地球上に住んでいるのではなく、地球に住んでいる。私たちは地球という巨大な生命体の体内の細胞である。もし、ある細胞集団が体内の他のエネルギーシステムを支配し、解体しようとするならば、生命体は健全に機能し続けることができなくなる。

 霊性的なものと自然的なものが対立するという考えや、霊性はつねに自然を超越しなければならないという考えは、多神教や伝統的なアニミズム社会には共有されていない、文化的な相対概念である。世界中の先住民文化では、自然世界は精霊の領域であり、聖なるものとみなされている。つまり、自然的なものは霊性的なものと考えられている。この信念から、自然を敬う姿勢、バランスのとれた関係を維持しようとする願望、未来の世代や生態系の未来の健康 ―つまり、持続可能性― を考慮することの必要性への直感的理解が追随してくるのである。自分たちとは異なる世界観を理解し敬うことは、霊性と自然との解離に執着する西洋にとって最適な解毒剤となるかもしれない。


〈註〉
3.その2」でレビューした、人間優越コンプレックスと大いに関係がある。


〈参考文献〉

Metzner,
Ralph (1999). Green psychology: Transforming our relationship to the earth. Rochester, VT: Park Street Press.

人間-自然関係の精神病理 その9:解離 (1)

人間-自然関係の精神病理 その
人間-自然関係の精神病理 その
人間-自然関係の精神病理 その
人間-自然関係の精神病理 その4
人間-自然関係の精神病理 その5

人間-自然関係の精神病理 その6
人間-自然関係の精神病理 その7
人間-自然関係の精神病理 その8

解離 (dissociation) (1)

 メツナーが最後に挙げる診断メタファーは解離 (dissociation) である。無意識の創造の抑圧を重要視するフロイト派や後フロイト派の考えとは対照的に、近年、解離の概念への関心が復活してきている。心的外傷後ストレス障害(PTSD: post-traumatic stress disorder) や多重人格障害(MPD: multiple personality disorder) 1 のような解離性障害の診断が頻繁になされるようになっている。解離は、実際、ごく普通の自然な認知機能である。何かに意識を集中させるという単純な行為にも、注意を向けていないものへの認識を排除する、ある程度の解離が含まれている。また解離は、外的世界の知覚を遮断し、内なるイメージ、記憶、印象に注意を向ける、催眠やトランス状態の際に役割を果たす。

 フロイト派の見解では、抑圧された無意識(イド)に内在する精神的要素(思考、イメージ、感情など)は「快楽原則」に従って機能する、まとまりを欠いた、原始的で、幼稚なものである。一方、顕在意識(ego) は「現実原則」に従って機能し、合理的にまとまりのあるかたちで、現実の要求に順応することができるものである。ジャネ(Pierre Janet) やヒルガード(Ernest Hilgard) らのような分離説派の見解によると、解離とは、等しくまとめられた合理的かつ現実とつながりのある意識の織りなす束が〈縦〉に分割したものだという。例えば、痛切な体験における精神的、感情的要素は解離することがあり、その結果、何を見て何を思ったかは覚えていても、何を感じたかは覚えていない。逆に、ある種の刺激によってパニックの感情が引き起こされることがあっても、起こった出来事の認知的記憶は解離し続けている、ということがある。
 
 解離性障害の中で最も極端な形である多重人格障害は、「自我状態」や「分身」と呼ばれる2つ以上の同一性が形成されるものである。多重人格者は、自分自身と別の名前や別の人格特性との連続性を維持する。ヒルガードが言うように、「隠れた(あるいは解離した)人格は、時に表に出た人格よりも正常で、精神的にも健全である。これは、1次過程の思考によって大きく統制された原始的な無意識であるという考えよりも、正常な意識の分裂という考えのほうがうまく一致する」。2

 「エコロジカルな無意識」の抑圧という考えよりも、この解離や分裂の概念のほうが、環境に関する人間の集団的病理のより正確で、より有効な理解を与えてくれる、とメツナーは言う。西洋の工業社会の文化全体が、そのエコロジカルな基層から解離している。それは、地球の複雑性や相互依存の繊細な網の目に関する知識や理解が、私たちの心の忘れさられた基底に漠然と不完全なかたちで留まっているということではない。私たちは環境に与える影響に関しての知識を持っているし、土地、水、大気の汚染や荒廃を認識することもできる。しかし、私たちはそのことに対して注意を払っていないし、持っている知識を体験と結びつけていない。もっと正確に言えば、私たちが関与する政治、経済、教育の制度すべてにこの解離が組み込まれているため、人は自然世界に対して適切に対応できないと感じている。


〈註〉
1.DSM-Ⅳからは、「解離性同一性障害(DID: Dissociative Identity Disorder)」と名称変更されている。
2.Metzner 1999, pp.94-95 より引用

人間-自然関係の精神病理 その8:エコロジカルな無意識の抑圧

人間-自然関係の精神病理 その
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人間-自然関係の精神病理 その
人間-自然関係の精神病理 その4
人間-自然関係の精神病理 その5

人間-自然関係の精神病理 その6
人間-自然関係の精神病理 その7

エコロジカルな無意識の抑圧 (Repression of the Ecological Unconscious)

 エコサイコロジーの提唱者セオドア・ローザック (Theodore Roszak) は、「工業社会に見られるなれあい的狂気は、エコロジカルな無意識の抑圧に深く根ざしている。エコロジカルな無意識との自由な行き来こそ、健全さへの道である」と述べている。1 ローザックによると、ユングの集合的無意識の概念は、後に全人類の宗教的象徴であるという点が強調されるようになったが、本来は前人類の動物や生態的元型 (archetype) を含むものであった。ローザックはその本来の意味を汲み、「宇宙進化の生きた記録」として、「エコロジカルな無意識(ecological unconscious)」と呼ぶことを提案している。
 
 しかし、メツナーは「エコロジカルな無意識」という名称には異議を唱えている。私たちは「無意識」ではなく、「エコロジカルな意識(ecological consciousness)」を育成しようとしているため、その概念を「無意識」として具体化することは、その理解を無意識なままにしてしまうおそれがあるという。メツナーはより良い名称として、アルド・レオポルド (Aldo Leoplod) の「エコロジカルな良心 (ecological conscience)」を挙げている。「良心」という言葉には、道徳的価値や倫理的配慮を含意しているからである。

 また、ローザックはフロイトのイド (id) を回復することを試みている。それはフロイト自身が考えた、色好みの捕食動物のようなものとしてのイドではなく、古代のエコロジカルな智慧の貯蔵庫として見るべきイドである。「生命圏の保存をめぐる地球の同盟者としてのイド。(そして)ガイアはイドという入り口から私たちのところへ手を伸ばしてくる」。2
 
 しかし、メツナーはこの考えがローザックの試みを適えるものではないと考える。西洋の近代的な子育てによって、子どもが生まれながらに持つエコロジカルな感性の大部分が押し殺されているということは真実である。しかし、その一方、伝統的な社会におけるエコロジカルな知識や、自然への崇敬の念は両親や年長者から子どもへと受け継がれるものであり、そうした養成の過程なくして発現するものではないということも真実である。これこそ、伝統的文化の崩壊が環境の荒廃を招いているという理由のひとつである。古代の伝統が持つ儀礼行為の復興や、強力なエコロジカル・リテラシー(ecological literacy: 環境を読み取る能力)によって補われないかぎり、「エコロジカルな無意識との自由な行き来」が意味するものはなんであれ、健全さへの道には不十分である、とメツナーは述べている。


〈註〉
1. Roszak 1992 / 2001, p.320 木幡訳の日本語版を参照。
2. Roszak 1992 / 2001, p.291


〈参考文献〉
Metzner, Ralph (1999). Green psychology: Transforming our relationship to the earth. Rochester, VT: Park Street Press.

Roszak, Theodore (1992 / 2001). The voice of the earth: An Exploration of ecopsychology (2nd ed.). Grand Rapids, MI: Phanes Press.― 木幡和枝訳『地球が語る-宇宙・人間・自然論』(ダイヤモンド社,1994

人間-自然関係の精神病理 その7:健忘

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人間-自然関係の精神病理 その4
人間-自然関係の精神病理 その5

人間-自然関係の精神病理 その6

健忘 (Amnesia)


 メツナーが次に挙げる有用な診断アナロジーは、生物種としての私たちがある種の集団的健忘症にみまわれているという考えである。私たちは、かつて祖先たちが知り、実践していたこと -ある種の心構えや知覚、人間以外の生命に共感したり、同一化する能力、神秘的なものへの敬意、自然世界の無限の複雑性との関係に対する謙虚さ- を忘れてしまっている。人間の意識の歴史における数々の決定的なターニングポイントで、私たちはある特別な発達の道を選んだため、何か他のものを忘れ、放置してしまった。
 
 メツナーは健忘のメタファーを、ポール・シェパードの見解(「その3」を参照)に当てはめて考えている。つまり、私たち
は青年期の通過儀礼を忘れ、新石器時代の狩猟採集民が持っていた謙虚さや繋がりを忘れ、自然世界内で起こるエネルギー変換の絶え間ないサイクルへの知覚感受性を忘れたのだという。デヴリュー (Paul Devereux) らは著作『Earthmind』で、健忘について次のように述べている。
私たちは長い間、かつての地球との親近性を思い出せないままでいる。この健忘のおかげで、今、私たちに押し迫ってくる環境問題は衝撃となってきている。… 実際には2重に忘れているという健忘が発現していることに気づく。文化が惑星との調和した生きかたを忘れていることと、それを忘れてしまったことをも忘れていることだ。1
 この健忘のメタファーをさらに深めると、「心的外傷性健忘 (traumatic amnesia)」の可能性も検討できる、とメツナーは言う。児童虐待やレイプ、戦争における戦闘、事故や自然災害などの体験が及ぼす影響についての研究から、人が全く自分ではどうすることもできない、不可抗力の状況でトラウマを体験すると、たとえ身体への物理的な影響や、悪夢やパニック発作などの症状が残ったとしても、その体験の記憶は失われてしまうということが明らかになっている。この考え方を、新石器時代の文化にとって正常、かつ自然だったと思われる自然との相互依存的な繋がりの知識を忘れてしまったという人間の健忘症に当てはめたならば、次の疑問が浮かぶ:この繋がりと調和の感覚を脅かした恐ろしい出来事は存在したのだろうか。

 メツナーはそうした出来事の候補として、広範囲にわたる生命の損失や移住を余儀なくされることを伴う火山や地震災害、長期的な雨季や旱魃、急激な気候変動、略奪戦闘集団による侵攻などを挙げている。たとえば、中世ヨーロッパでのキリスト教による自然崇拝宗教への猛攻撃や、14世紀の人口の3分の1を壊滅させたペスト(黒死病)もトラウマを与える出来事だったと考えられる。

 健忘のアナロジーは期待が持てるものだ、とメツナーは言う。なぜなら、全く新しいものへ適応していくことよりも、かつて知っていたものごとを思い出すことのほうが容易いからである。また、南北アメリカ、東南アジア、オーストラリアに住む先住民族は、彼らの生活様式の中で守り、維持してきたある種の不可欠な行為や価値 -〈文明化〉した人間が忘れてしまったもの- を、私たちに思い出させてくれる。


〈註〉
1. Metzner 1999, p.91 より引用


〈参考文献〉
Metzner, Ralph (1999). Green psychology: Transforming our relationship to the earth. Rochester, VT: Park Street Press.

人間-自然関係の精神病理 その6:ナルシシズム

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人間-自然関係の精神病理 その4
人間-自然関係の精神病理 その5

ナルシシズム (Narcissism)


 地球規模で展開される生態系破壊の原動力となっているもののひとつに、特に極度に工業化・近代化した社会における過剰消費の問題が挙げられる。消費主義 ―より多くの人々がより多くのモノを欲しがり、購入する― は、前回紹介した、個人レベルにおける強迫行為・嗜癖メタファーの集合的な表れとして見ることができる。消費は広告宣伝によって、大規模、且つ、人為的に極端なレベルまで推し進められているが、そこには私たちの心の中に潜むナルシシズム(自己愛)が大きなな役割を担っていると示唆する多くの証拠が存在する。ナルシシズムとは、膨張した誇大な自己イメージや、深層にある無価値感や空虚さを覆い隠すため特権意識を持つことなどを特徴とする人格障害である。

 心理学者のクッシュマン (Philip Cushman) は、ナルシシズムと消費文化の明白な類似性を引き出している。より高価でより技術的に進歩した消費財を絶え間なく追い求めることは、「偽りの自己 (false self)」を満足させる。安定のない、空虚な内なる本当の自己は不安にさらされ、傷を負ったままであるのに、偽りの自己はモノを買うことで内なる空虚さを埋めようとすることを駆り立てる。クッシュマンが言うように、「空虚な自己は、ますます大きくなる疎外と戦うために、モノ、カロリー、経験、政治家、恋愛のパートナー、共感してくれるセラピストを消費することによって、絶えず満たされる経験を求める」1

 エコサイコロジストのカナー (Allen Kanner) とゴメス (Mary Gomes) は、こうした一連の研究の幅を広げ、もしアメリカ文化が集団ナルシシズムに陥っているという診断が正しいならば、それは環境保護論者にとって困難な課題になると言う。平均的な消費者は心の中で不十分さを感じ、その無価値さを癒すため、もっと浪費させようと企む嵐のような広告の爆撃を絶えず受け続ける。したがって、環境保護論者が物質消費をもっと減らそうと嘆願しても、権利主張や恐れによって聞こえなくなった消費者の耳には届かないかもしれない。「過剰な物質主義だと彼ら(消費者)を非難すれば、環境に関した彼らの習慣を大幅に変えることになるよりも、むしろそうした忠告が、主として彼らの全体的な挫折感を増幅させるおそれがある」2


〈註〉
1.Kanner and Gomes 1995, p.79より引用
2.Kanner and Gomes 1995, p.89

〈参考文献〉
Kanner, Allen and Gomes, Mary (1995). The all-consuming self. In T. Roszak, M. Gomes, and A. Kanner (Eds.), Ecopsychology: Restoring the earth, healing the mind (pp.77-91). San Francisco: Sierra Club Books.

Metzner, Ralph (1999). Green psychology: Transforming our relationship to the earth. Rochester, VT: Park Street Press.

人間-自然関係の精神病理 その5:嗜癖

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人間-自然関係の精神病理 その4

嗜癖 (Addiction)


 この40年間、科学者や専門家たちは、世界規模で展開する環境破壊の恐ろしく、心を硬直させるような状況を細部にいたるまで説明してきた。しかし、それでもなお、私たちが自殺的で環境破壊的行為を止めることができないのは、嗜癖 (addiction) や強迫行為 (compulsion) ―それが家族、仕事、社会的関係を壊すものだと知りつつも続けられる行為― の臨床定義と一致する。このメタファーは、大きなスケールで捉えると、苦悩や不満は全人間の避けられない特性であり、渇望や欲望が苦悩の根源であると説くアジアの霊性的伝統、特に仏教の教えにも相当する。

 ディープエコロジストのラシャペル (Dolores LaChapelle) はこの嗜癖という概念を用い、金、銀、砂糖、薬物など依存性のある物質への飽くなき追求と、16世紀から現在に至る資本集約型工業社会の驚くべき成長との相関関係を分析している。ラシャペルいわく:
資本主義の発展全体は、人々の集団をある〈物質〉に依存させ、それを彼らに売りつけることによって成り立っている。私たちが安価な天然資源の膨大な産地を持つ限りにおいて、資本主義は〈機能していた〉。その〈嗜癖〉の歴史は続いているので、いまや資本主義は成長への燃料を補給するため、さらにも増して依存性薬物に頼っている。1
 もっと一般的に、消費主義の拡大や工業経済成長への強迫観念を嗜癖的社会の表れとして見ることもできる。心理学者のグレンディニング (Chellis Glendinning) は、現代の工業文明にみられるより速く、より強力な機械への強迫的な渇望を、「テクノ依存症 (techno-addiction)」と診断している。グレンディニングは、私たちの自然からの分離を「原初のトラウマ (original trauma)」であるとし、テクノ依存症は再びこのトラウマを負わせることになるという。2

メツナーは、この嗜癖モデルを非常に有用とみている。過去40年間、私たちは嗜癖に関する事象、その治療法や防止法を学んできた。例えば、「アルコホーリクス・アノニマス (AA)」で使用される「12のステップ」は、嗜癖のサイクルを絶ちたいと願う人にとって魅力あるものであり、また、スピリチュアルな価値観を人々に訴えるものである。


〈註〉
1.LaChapelle 1988, p.48
2.グレンディニングいわく、
私たちのようなテクノロジーに生きる人々が被るトラウマとは、自らの生活を自然界から、ざらざらした手触りの巻き蔓から、太陽と月のリズムから、熊や木々の精霊から、生命力そのものから、組織的、意図的に隔てることだ。それはまた、自らの生活を自然世界のリズムの中で生きていた私たちの祖先の社会的・文化的体験から、組織的、意図的に隔てることでもある。(1995, pp. 51-52)

〈参考文献〉
Glendinning, Chellis (1995). Technology, trauma, and the wild. In T. Roszak, M. Gomes, and A. Kanner (Eds.), Ecopsychology: Restoring the earth, healing the mind (pp.41-54). San Francisco: Sierra Club Books.

LaChapelle, Dolores (1988). Sacred land, sacred sex: Rapture of the deep. Durango, CO: Kivaki Press.

Metzner, Ralph (1999). Green psychology: Transforming our relationship to the earth. Rochester, VT: Park Street Press.

人間-自然関係の精神病理 その4:自閉症

人間-自然関係の精神病理 その
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自閉症 (Autism)

 神学者のトマス・ベリー (Thomas Berry)は、人間と自然との関係を自閉症という臨床心理メタファーを用いて論じている。ベリーいわく、自然世界との関係において
私たちは自閉的になってきている。地球、地形、大気現象や全ての命あるもの、山や渓谷、雨、風、惑星の全ての動植物が私たち語りかけていることに、もう耳を傾けていない。17世紀以来、ずっと私たちには聞こえていないし、自分たちに関する内なる世界を理解していない。私たちは外的な現象を体験している。内なる意味の世界に入り込めなくなっている。私たちにはその声が聞こえていない。1
上記の「17世紀」とは、デカルトの機械論的世界観の創案を指している。「デカルトは…地球とその全ての生きものを殺した。彼にとって自然世界は機械だった。交感関係へと入り込む余地は無かった」。2

 DSM-Ⅳ(精神疾患の分類と診断の手引 第4版)によると、自閉症とは、対人的相互反応における質的な障害、対人的または情緒的相互性の欠如、意思伝達の質的な障害、活動と興味の範囲の著しい限局性などを特徴とする
広汎性発達障害である。人間は自らを理解することや、自らに関する事柄に取りつかれていて、地球や自然のプロセスを理解しようとしていない。自閉症児が母親の存在を見聞きしたり、感じたりしていないかのように見えるのと同様に、私たちはこの生きている惑星の超自然的存在が見えなくなり、地球の声や、工業化以前の社会で祖先が育んできた物語が聞こえなくなってきている、とメツナーは言う。この自閉的な状況は、ベリーによると、「人間と自然世界との相互存在の新たな様式」によってのみ治癒されうる。


〈註〉
1
.
Berry, The Ecozoic Era (Short piece)
2. Berry, 1991


〈参考文献〉
American Psychiatric Association (1994). Diagnostic and statistical manual of mental disorders (DSM-Ⅳ) 4th edition. Washington, D.C.: American Psychiatric Association.高橋三郎・大野裕・染矢俊幸訳『DSM-IV 精神疾患の分類と診断の手引』(医学書院,1995

Berry, Thomas (1991). "The Ecozoic era". Eleventh Annual E. F. Schumacher Lectures. Great Barrington Association, Mass.: E. F. Schumacher Society.

Berry, Thomas. The Ecozoic era (Short piece).

http://www.earth-community.org/images/The%20Ecozoic%20Era.pdf

Metzner,
Ralph (1999). Green psychology: Transforming our relationship to the earth. Rochester, VT: Park Street Press.

人間-自然関係の精神病理 その3:発達の固着

人間-自然関係の精神病理 その1
人間-自然関係の精神病理 その2

発達の固着 (Developmental Fixation) :ポール・シェパードの見解


 人間生態学者ポール・シェパード (Paul Shepard) は、著作『Nature and Madness(1982)で、人間の心理と繰り返される環境破壊行為の相互作用について論じた最初のエコサイコロジス
トと言うべき人物である。シェパードは西洋文明(特にユダヤ・キリスト教文明)の文化的精神病理を発達遅延(arrested development)と分析し、彼が「個体発生的障害 (ontogenetic crippling)」と呼ぶものを経験しているのだという。人間の環境破壊行為はまさにこの個体発生的障害の表れである。

 シェパードによる幼形成熟 (neoteny) と文化に提供される発達援助との相互作用の分析は特に興味深い。人間は成人に至るまでの未熟な期間や、養育者に依存する期間が他の生物と比べて長い、幼形成熟の生物種である。このため、文化によってに与えられる発達援助が不足したり、あるいは全くないような場合には破滅的な結果を招く。1 シェパードは旧石器時代の狩猟採集社会を生態学的にバランスのとれた生活様式のモデルとして挙げ、およそ1万2千年前の農耕社会の始まりによって、人間は何万年もの間健全に機能してきた発達の手段を失いだした、または誤用しだしたのだという。

 太古の発達様式が慢性的に不完全になりつつあると考えられるのは、幼児-養育者関係と青年期の通過儀礼の2つの段階である。シェパードによると、農耕畜産型社会が発達途上にある子どもと世界自然との間の距離を深め、それによって、完全に成熟した大人へと向かう重大な過程の中で直面する数々の問題に向き合うことを困難にしてしまった。

 エリクソン (Erick Erikson) の発達モデルでは、青年期は子どもが「自己同一性と自己同一性拡散」の対立に巻き込まれる時期である。エリクソンによると、この段階の混乱をうまく乗り越えられない若者は、「極端に排他的で不寛容であり、肌の色や文化的背景が〈異なった〉他者を排除することにおいて非情」になりやすい傾向があるという2 家族という母体からより大きな社会への過渡期を乗り越えるための手本となる体系を提供することは、伝統的社会にみられる通過儀礼が果たしてきた役割であった。現代においてこのような青年期の通過儀礼が急激に価値を失い、減少しているのは明らかである。今も残る成人男子の通過儀礼は軍の入隊式や、大学のフラタニティ(社交クラブ)入会のしごき、若いストリートギャングの仲間内での無益な儀式にのみ見受けられる。

 またシェパードは、青年期の通過儀礼の喪失に加えて、幼児と養育者との絆が形成される最初期の段階が中断されたり、妨げられたりした場合に発現する「調和異常」(unity pathology) と彼が呼ぶものについても指摘する。エリクソンの発達モデルによると、この段階は子どもの発達途上にある自己感が「基本的信頼と不信の対立」の問題に対処する時期である。この段階をうまく乗り越えられなかったならば、よくても慢性的な不安感をもつことになるか、最悪の場合、猜疑心をもち、妄想型の精神疾患による暴力へと向かう傾向もみられる。リードロフ (Jean Liedloff) によるアマゾンインディアンの母親と幼児の絆の研究と「連続性の概念 (continuum concept)」は、狩猟採取社会にみられる熱心な早期愛着関係が長期に渡る依存性を引き起こすのではなく、神経組織をよりよく機能させるというシェパードの主張を支えるものになる。

 シェパードは個体発生的障害説を次のようにまとめている。「人間はいまや世界中で最も薄弱な自己同一性構造を持つものかもしれない。旧石器時代の基準でいえば、幼稚な大人だ」。3 この集団的狂気が招くひどい結果のひとつは「私たちが漠然と期待を裏切られていると感じる自然の世界にいつでも歯向かおうとしていること」である。一方、自然の世界や社会が自分たちに必要なものを与えてくれるという基本的信頼を幼年期に築いた若者は、競争優位を得るための絶え間ない苦闘を要求する世界観に魅了されりはしないだろう。

 この集団的発達遅延への可能性ある治療法について、シェパードは多くを述べていない。しかしメツナーは、立派な年長者によって執り行われる通過儀礼を再び慣習化することや、幼少期の絆の脆さに対してもっと繊細な感性をもつことが、この病状を好転させるために必要になるだろうと言う。シェパードいわく:
自己と世界が生態学的に調和している感覚は…私たちみんなが受け継いできたものである。それは生物の中に、ゲノム(遺伝情報)と初期の経験との相互作用の中に潜在している。そうした初期の経験、漸成の過程は、人間と人間以外のものとが健全に交感しあっていた進化上の過去の遺産である。4

〈註〉

1.前回紹介した「人間優越コンプレックス」の形成に大きな関連性があると思われる。
2.Erikson 1980, p.97
3.Shepard 1982, p.124
4.Shepard 1982, p.128


〈参考文献〉
Erikson, Erik (1959 / 1980). Identity and the life cycle. New York: Norton & Co.

Liedloff, Jean (1977). The continuum concept. Reading, Mass.:Addison-Wesley.-山下公子訳『野生の旅:いのちの連続性を求めて』(新曜社,1984)

Metzner,
Ralph (1999). Green psychology: Transforming our relationship to the earth. Rochester, VT: Park Street Press.

Shepard, Paul (1982). Nature and madness. San Francisco: Sierra Club Books.

人間-自然関係の精神病理 その2:人間優越コンプレックス

人間-自然関係の精神病理 その1

人間中心主義と人間優越コンプレックス (Anthropocentrism and the Human Superiority Complex)


 人間という生物種の生態学的不適応性を哲学的に診断すれば、人間中心主義 (anthropocentrism, homocentrism) の概念が挙げられる。それに対し、この不適応性を改正するものが、生命中心主義 (biocentrism) や生態系中心主義 (ecocentrism) である。人間中心主義への批判は、特にノルウェーの哲学者アルネ・ネス (Arne Naess) や彼の提唱するディープエコロジーの賛同者によって明確に論じられてきた。人間中心主義という言葉が近代の世界観における人間の自然に対する姿勢への批判として用いられるのは、「自民族中心主義 (ethnocentrism)」が人種差別への批判として、また「欧州中心主義 (eurocentrism)」が西洋文化の植民地開拓イデオロギーの批判として用いられていることに相当する。 

 人間中心の姿勢が工業社会の生態学的不均衡を生み出し、それを悪化させてきたのは疑いないが、人間中心主義という言葉の使用に関して、メツナーは疑問を呈する。この言葉には2つの異なった意味合いが含まれているためである。Anthropocentricは文字通り「人間中心」を意味するが、人間は、他の生物と同様に、自らの生存優位性を最大限にしようと努めるため、自身の視点から世界を見ざるを得ない。したがって、非人間中心主義の立場というものは不可能であり不自然だ、とメツナーは言う。

 しかし、ディープエコロジストたちによる人間中心主義への批判は、単に人間中心の観点への執着を非難しているだけではない。そこには勝手に思い込んでいる優位性と他者を支配する権利
という意味合いが暗に含まれていることへの批判がある。これは「人間偏重主義 (human chauvinism)」や「人間帝国主義 (human imperialism)」、「種差別主義 (speciesism)」と呼ばれているものであり、人種差別主義 (racism) 、性差別主義 (sexism) 、階級差別主義 (classism)、民族主義 (nationalism) といった偏見のイデオロギーに相当するものである。これらいずれの偏見の形態にも、人間のある集団が、自らが他の存在(人間や人間以外のもの)よりも優れていると決めつけ、劣っていると判断されたものを支配し、利用する権利を思いのままにするといったことがみられる。今日の環境問題は、まさに他の生物種よりも優位であるという人間の思い込みによる種差別主義に根ざしている。

 これは人間中心の観点へ執着することとは全く異なる考えであるので、メツナーは人間中心主義の代わりに、この病理診断メタファーを「人間優越コンプレックス (human or humanist superiority complex)」と呼ぶ。創世記の創造神話に描かれる「支配」の比喩的表現をその源泉のひとつとしてみなすことができるだろう。「支配」とは、実際には「スチュアード精神 (stewardship)」であり、神の代理人として世界の世話を任されていることを意味すると主張するキリスト教神学者もいるが、多くのものにとっては、このスチュアード精神の概念もいまだ人間優位性の前提に成り立っているといえる。また、ダーウィン進化論の単純極まりない解釈も、人間が他の生物に比べてより複雑に進化を遂げたすぐれた動物だという考えを助長し、自然に手を加え、人間に見合ったように利用する知識と権利を有することを当然とみなすようになってしまった。


 「優越性の追求」や「力への意思」は、心理学者アドラー (Alfred Adler) の発達理論の中心概念である。アドラーは、意識的な優越感とは、無意識の劣等コンプレックスを常に補償するものであり、そうした劣等感は長期に渡る依存性や未熟さの結果として幼年期に自然と生じる傾向があると考えていた。この優越-劣等コンプレックスを人間の自然に対する横柄さに当てはめてみると、自然を征服し支配するという姿勢の裏には、自然世界への無意識の恐れや不全感が潜んでいるといえるだろう。


〈参考文献〉
Metzner, Ralph (1998). Pride, prejudice and paranoia: Dismantling the ideology of domination. World futures (51): 239-267

Metzner, Ralph (1999). Green psychology: Transforming our relationship to the earth. Rochester, VT: Park Street Press.

Nash, Roderick F. (1989). The rights of nature: A history of environmental ethics. Madison, WI: University of Wisconsin Press.-松野弘訳『自然の権利:環境倫理の文明史』(筑摩書房,1999)


人間-自然関係の精神病理 その1:病める生命圏

 多くのエコサイコロジストは、人間と自然との関係の破滅的な不均衡が地球環境破壊の根本的原因のひとつであると考えている。ラルフ・メツナー (Ralph Metzner) は、著作『Green Psychology(1999) の第6章『Psychopathology of the Human-Nature Relationship(人間-自然関係の精神病理)』で、医学や臨床心理学における様々な病理診断をメタファーとして用いて、人間がいかにして自然との病理的な疎外関係を生み出しているのか、またどのような治療法が考えられるかについて論じている。これから数回にわたって、メツナーの病理メタファーによる人間-自然関係の考察をレビューしていきたい。


病める生命圏 (The Ailing Biosphere)

 現在の地球という惑星を医学的に診断すれば、以下のような2つの病を患っていると考えることができる。

1.悪性腫瘍 (malignant tumor)

 悪性腫瘍は、無制限に増殖し、周囲の組織を破壊する異常細胞の集団である。地球をひとつの生命体と見るならば、人類や他の有機体はこの超生命体の細胞にあたる。今日、生態系の破壊を続ける人類の人口が生命圏のいたるところで加速度的に増え続けているさまは、まさに悪性腫瘍(がん細胞)の増加に例えることができるだろう。

 この悪性腫瘍という病理メタファーを用いるのならば、実際のがん治療のように、病巣を取り除くこと、つまり人類を地球上から排除することが唯一の方法だという考えも浮上してしまう。しかし、このような考えは病理アナロジーの誤った解釈だとメツナーは言う。がん治療には他にも様々なアプローチがあって、例えば食事、ライフスタイル、態度、自己概念を改善することも効果的な治療法である。また、がん細胞が増殖を止めることで組織が健康状態へと戻ったり、免疫システムが病原菌の数を許容可能なレベルまで下げるという自然完解 (spontaneous remission) の事例が数多く報告されている。こうした過度の増殖を防ぐ自然の抑制メカニズムは再活性されうる。このことは、個人が自覚して人口再生産率を制限することや、コミュニティが自覚して都市の無秩序な拡大に境界を設けることに類比することができるかもしれない。

2.寄生体感染 (parasitical infection)

 ガイア理論で知られるジェームズ・ラヴロック (James Lovelock) は、地球の生態系やエネルギー循環の構造や機能の科学を『地球生理学』として確立することを主張しており、地球の様々な症状を診断している。例えば、地球温暖化は「二酸化炭素による発熱」であり、酸性雨などの汚染は「酸による消化不良」と診断される (1988)。とりわけラヴロックが気に入ってる診断は、地球がホモ・サピエンスという種の寄生体に感染しているというものである。ラブロックは寄生体とホスト(宿主)の関係には以下の4つの起こり得る結果があると指摘する (1991)。

  1. ホストの免疫システムによって寄生体は撲滅される。

  2. ホストと寄生体は長期の消耗戦に入る。(慢性的な感染状態)

  3. 寄生体はホストを破壊し、自らの生命維持も失う。

  4. 寄生関係は相利共生 (mutualism)、あるいは共生 (symbiosis) 関係へと変化する。

4つめの共生関係へと進むことが最も望ましいシナリオである。共生が成立すればホストにも侵入者にも相互利益のある長続きする関係が保たれる。自然界には様々なスケールでこの種の共生関係へと至った前例がいくつもある。しかし、人間には賢明に行動してガイアとの共生を達成するのを困難にする生得的特性がある、とラヴロックは付け加えている 。



参考文献

Lovelock, James (1988). The ages of Gaia: A biographyof our living earth. NY: W.W. Norton and Co.-スワミ・プレム・プラブッダ訳『ガイアの時代:地球生命圏の進化』(工作舎,1989)

Lovelock, James (1991). Healing Gaia: Practical medicine for the planet. NY: Harmony Books.-糸川英夫監修『ガイア-生命惑星・地球』(NTT出版,1993)

Metzner, Ralph (1999). Green psychology: Transforming our relationship to the earth. Rochester, VT: Park Street Press.


エコサイコロジーの原則 (Full text)

1.心の核心はエコロジカルな無意識である。エコサイコロジーからすると、工業社会に見られるなれあい的狂気は、エコロジカルな無意識の抑圧に深く根ざしている。エコロジカルな無意識との自由な行き来こそ、健全さへの道である。

2.エコロジカルな無意識の中身は、ある程度、心性のなんらかのレベルにおいて、はるか昔の時間史の初期条件まで遡る、宇宙進化の生きた記録を象徴している。自然の秩序のある複雑性に関する現代の研究でわかることは、生命と意識はこの進化の物語から発したということであり、それらは、私たちが「宇宙」と呼んでいるさまざまな物理的、生物学的、精神的、文化的システムが順々に現れてくるなかで、自然システムの頂点を表している、ということだ。エコサイコロジーは、新しい宇宙論のこれらの発見を糧とし、それらを現実のものとして体験することを目指している。

3.無意識の抑圧された中身を回復させることが、まさしくこれまでの治療法の目標だったように、エコサイコロジーの目標もまた、エコロジカルな無意識に内在する、環境との本来的な相互依存感覚を目覚めさせることである。ほかの精神療法は人と人、個人と家族、個人と社会との疎外関係を癒すことを目指している。だが、エコサイコロジーは、人と自然環境との間に生じた、もっと根底的な疎外関係の治癒を目指している。

4.他の療法にとってもそうだが、エコサイコロジーにとっても、発達の決定的な段階は子どもの生活である。新生児の魔法を秘めたような世界に対する感覚においてこそ、あたかも天賦の才であるかのように、エコロジカルな無意識は再生してくる。機能的に「健全な」大人において、子どものもつ生得的なアニミズム的経験の質を回復することを、エコサイコロジーは目指している。そのために、エコサイコロジーは多くの知識をよりどころとするが、そこには原始的な生活をする人々の伝統的な癒しの手法、宗教や芸術に表れる自然神秘主義、野生の体験、ディープ・エコロジーがもたらす洞察などが含まれる。これらを適用して、エコロジカルな自我の創出という目標に資する。

5.エコロジカルな自我は、地球に対する倫理的責任感に向かって成熟をとげる。それは、他者に対する倫理的責任感として生き生きとした形で体験されるものである。エコサイコロジーは、この責任を織りあげて、社会的諸関係と政治諸決定という布地をつくりだす。

6.治療のプロジェクトのなかでも、エコサイコロジーにとってもっとも重要なのは、私たちの社会の政治権力の構造に浸透している、ある種の強制的な「男性的」性向の痕跡を洗いなおすことである。この性向は、自然を、あたかも自分たちとは別物の、なんの権利もない領域であるかのようにみなし、それを支配することを私たちにけしかける。その意味で、エコサイコロジーは、エコフェミニズムと「フェミニスト・スピリチュアリティ」運動が獲得した洞察のいくつか(すべてではなく)を、そうとう取り入れている。それにより、性的な類型という神話を打ち破ろうとするものである。

7.小さなスケールの社会的形態と、個人の権力の強化に資することはなんであれ、エコロジカルな自我の糧となる。大きなスケールの支配と、個人性の抑圧を目指すものはなんであれ、エコロジカルな自我を阻害する。したがってエコサイコロジーは、組織化のありようが資本主義的であれ集団主義あれ、現代のあらゆる巨大な都市的・工業的文化の本質的な意味での健全さに、深い疑問を呈する。だが、そうはいっても、人類の技術の才、また人類がこれまでに蓄積してきた、工業力に支えられた生命の拡張に役立つ手段を、すべて拒絶するわけではない。エコサイコロジーの社会的志向は、工業的なるものを超越することであり、それに敵対することではない。

8.地球の福祉と個人の福祉のあいだには、シナジー(相乗効果)をもつ作用関係がある、とエコサイコロジーでは考える。シナジーという言葉をあえて選んだ理由は、従来からこの言葉がもっている神学的な意味合いである。それはかつて、こう教えていた。人と神は救済を求めるなかで、協力という絆で結びついている、と。この言葉を現代の生態学で翻訳すれば、つぎのようになるだろう。地球が必要としていることは、人が必要としていることでもある。人の権利は、地球の権利でもある。1

〈註〉

1. Roszak 1992 / 2001, pp. 320-321. 木幡訳の日本語版を参照(pp.457-459)。訳者は「ecopsychology」を「生態学的心理学」、「ecological」を「生態学的」と訳しているが、筆者は 「エコサイコロジー」、「エコロジカルな」に変更している。

〈参考文献〉

Roszak, Theodore (1992 / 2001). The voice of the earth: An Exploration of ecopsychology (2nd ed.). Grand Rapids, MI: Phanes Press.― 木幡和枝訳『地球が語る-宇宙・人間・自然論』(ダイヤモンド社1994)



エコサイコロジーの歴史

 「エコサイコロジー」という用語とそのヴィジョンが初めて公的に定義されたのは、1992年に出版されたセオドア・ローザック(Theodore Roszak)著の『The Voice of the Earth』においてである。そして、その3年後の1995年に出版された26編のエッセイからなるアンソロジー、『Ecopsychology: Restoring the Earth, Healing the Mind』(Roszak, Gomes, and Kanner 編)によって、エコサイコロジーは新しい学問分野としての存在を確立したといえるだろう。ところが、ローザックによるエコサイコロジーの提唱以前にも、環境危機の心理的原因について洞察を深めてきた人物は数多く存在している。したがって、いつ、誰によって最初にエコサイコロジーの発想が生まれたのかを特定することは難しい。

 しかし、命名者であるローザック自身が「最初のエコサイコロジストであり、環境保護運動において、心理学の範疇を私たちの手による惑星の治療に適用した最初の思想家」1と評している人物は、人間生態学者のポール・シェパード(Paul Shepard)である。人間心理と人間による環境破壊行動の相互作用について論じたシェパードの著作『Nature and Madness』(1982)は、エコサイコロジーのパイオニア的研究だと言われている。またローザックは、初期からエコサイコロジーの展開に参与し、以前から関連した多数のエッセイの執筆や、カリフォルニア統合学研究所(California Institute of Integral Studies)で関連した授業を行っていた心理学者のラルフ・メツナー(Ralph Metzner)をエコサイコロジーの創設者の一人とみなしている(Hibbard, 2003

 もう一人の記すべき人物は、1960年代に「サイコエコロジー (psychoecology)」という概念を提唱したロバート・グリーンウェイ(Robert Greenway)である。グリーンウェイは大学でエコロジーを学び、その後マズロー(Abraham Maslow)のライターとして人間性心理学や後のトランスパーソナル心理学の興隆に携わる中、「心は自然であり、自然は心である」という確信を持ち、そこからサイコエコロジーの概念が生みだされた。彼は1968年にカリフォルニアのソノマ州立大学で、サイコエコロジーやトランスパーソナル心理学を教え始めた。それから20年後の1989年に、グリーンウェイの教え子だったイラン・シャピロ(Elan Shapiro)がバークレイでサイコエコロジーのディスカッショングループを結成し、グリーンウェイ、アラン・カナー(Alan Kanner)、メアリー・ゴメス(Mary Gomes)らと隔週で集まり、人間と自然の関係や心理療法がいかにして人間と自然の分離した関係を治癒することができるのかなど、様々なトピックについて議論したという。そしてローザックも後にそのグループへ参加することになった。ここでの議論がローザックのエコサイコロジーの提唱につながっているといえるだろう(Greenway, 2000; Schroll, 2007)

 エコサイコロジーは、ローザックによる提唱からいまだ十数年で、その歴史は浅く、今後の発展が望まれる。しかしエコサイコロジーの源泉となっているものは多岐にわたり、歴史的にみればそれは太古まで遡ることができるだろう。そうしたエコサイコロジーのルーツに関してはまた別の項で論じてみようと思う。


1The Ecopsychology Newsletter 6 (1996, fall), p.11. Hibbard, 2003, p.27より引用)他にもローザックは、近代生態学の創始者で『相互扶助論』を説いたクロポトキン(Prince Peter Kropotkin)や、アナーキストでゲシュタルトセラピーの創設者でもあるグッドマン(Paul Goodman)の、心理学とエコロジーを統合しようする試みから、彼らを最初期のエコサイコロジストと評している。


参考文献

Greenway, Robert (2000). Ecopsychology: A personal history.
http://www.ecopsychology.org/journal/gatherings/personal.htm

Hibbard, Whit (2003). Ecopsychology: A review. The Trumpeter 19(2): 23-58

Roszak, Theodore (1992 / 2001). The voice of the earth: An exploration of ecopsychology (2nd ed.). Grand Rapids, MI: Phanes Press.

Roszak, T., M. Gomes, and A. Kanner, eds. (1995). Ecopsychology: Restoring the earth, healing the mind. San Francisco: Sierra Club Books.

Schroll, Mark A. (2007). Wrestling with Arne Naess: A chronicle of ecopsychology's origins. The Trumpeter 23(1): 28-57


エコサイコロジーの原則

 セオドア・ローザックは『The Voice of the Earth (邦題:地球が語る)』(1992 / 2001)でエコサイコロジーの原則を以下のように挙げている。1

  1. 「心の核心はエコロジカルな無意識である。エコサイコロジーからすると、工業社会に見られるなれあい的狂気は、エコロジカルな無意識の抑圧に深く根ざしている。エコロジカルな無意識との自由な行き来こそ、健全さへの道である。」

  2. 「エコロジカルな無意識の中身は、ある程度、心性のなんらかのレベルにおいて、はるか昔の時間史の初期条件まで遡る、宇宙進化の生きた記録を象徴している。」

  3. 「エコロジカルな無意識に内在する、環境との本来的な相互依存感覚を目覚めさせること」は可能であり、それによって「人と自然環境との間に生じた、もっと根底的な疎外関係」は治癒される。

  4. 「新生児の魔法を秘めたような世界に対する感覚においてこそ…エコロジカルな無意識は再生してくる。機能的に〈健全な〉大人において、子どものもつ生得的なアニミズム的経験の質を回復すること」と「エコロジカルな自我の創出」をエコサイコロジーは目指している。

  5. 「エコロジカルな自我は、地球に対する倫理的責任感に向かって成熟をとげる。それは、他者に対する倫理的責任感として生き生きとした形で体験されるものである。エコサイコロジーは、この責任を織りあげて、社会的諸関係と政治諸決定という布地をつくりだす。」

  6. 「自然を、あたかも自分たちとは別物の、なんの権利もない領域であるかのようにみなし、それを支配することを私たちにけしかける、ある種の強制的な〈男性的〉性向の痕跡」がある。その男性的性向を洗いなおす必要がある。

  7. 「小さなスケールの社会的形態と、個人の権力の強化に資することはなんであれ、エコロジカルな自我の糧となる。(その一方で)大きなスケールの支配と、個人性の抑圧を目指すものはなんであれ、エコロジカルな自我を阻害する。したがってエコサイコロジーは、組織化のありようが資本主義的であれ集団主義あれ、現代のあらゆる巨大な都市的・工業的文化の本質的な意味での健全さに、深い疑問を呈する。…エコサイコロジーの社会的志向は、工業的なるものを超越することであり、それに敵対することではない。」

  8. 「地球が必要としていることは、人が必要としていることでもある。人の権利は、地球の権利でもある。」

 ローザックはこれらの原則を単なるガイドだと述べており、他のエコサイコロジスト達によってさらに発展されることを期待していた。彼がこのオリジナルの原則を提唱してから2年後、『エコサイコロジー・ラウンドテーブル』のメンバーによって以下つの原則が付け加えられたHibbard, 2003

  1. 地球は生けるシステムである宇宙の一部であり、地球自体もまた生けるシステムである。

  2. 人類、人類の成果および文化は、そのシステムの欠くことができない必須のものである。

  3. システム全体とその全ての部分の健康には、部分同士の間、また部分と全体との間に調和のとれた、持続可能で、相互に育成しあう関係が必要とされる。

  4. 〈身体的〉かつ〈心理的〉な次元を含む健全な人間の発達には、人間と人間以外の世界の形態との相互関連性や相互依存性が含まれなければならない。

  5. 人体や部分の核にある、私たちが〈魂〉(psyche) と呼ぶものは、生けるシステムである地球の他の形態と共進化するにつれて、私たちの内部に保存されてきた情報である。エコロジカルな無意識と呼ばれているエコロジカルな知性は、人間と自然の結びつきに関する〈理解〉の貯蔵庫のようなものである。2

 これら13からなる原則がエコサイコロジーの核となる原則だと考えられる。


〈註〉

1. Roszak 1992 / 2001, pp. 320-321. 木幡訳の日本語版を参照。訳者は「ecopsychology」を「生態学的心理学」、「ecological」を「生態学的」と訳しているが、筆者は「エコサイコロジー」、「エコロジカルな」に変更している。ここに紹介した原則は要約したものであり、全文はこちらを参照のこと。

2. Ecopsychology Roundtable. 1994. Statment of Purpose for an Ecopsychology Conferense. Unpublished draft. Center for Psychology & Social Change at Harvard Medical School. (Hibbard 2003, p. 40より引用


〈参考文献〉

Hibbard, Whit (2003). Ecopsychology: A review. The Trumpeter 19(2): 23-58

Roszak, Theodore (1992 / 2001). The voice of the earth: An Exploration of ecopsychology (2nd ed.). Grand Rapids, MI: Phanes Press.― 木幡和枝訳『地球が語る-宇宙・人間・自然論』(ダイヤモンド社1994)


はじめに

Psychology, so dedicated to awakening human consciousness, need to wake itself up to one of the most ancient human truths: we cannot be studied or cured apart from the planet.

James Hillman 1

人間の意識を覚醒することに専念してきた心理学は、太古の人間真理のひとつに気づく必要がある。私たちを惑星から切り離して研究することも、また治癒することもできないということに。                

 エコサイコロジー (Ecopsychology) とは、その名が示すとおり、エコロジーecology:生態学)とサイコロジー(psychology:心理学)を統合した新興の学際分野である。アメリカの歴史学者、セオドア・ローザック (1992) が「心理学的なものと生態学的なものの間にある、われわれの文化が作った長年にわたる歴史的な深い淵に橋を架ける」ために発案した造語である。この2つの分野を統合する試みには、「心理学のエコロジー化 (ecologizing psychology) 」と、「エコロジーの心理学化 (psychologizing ecology) 」という両義的な基本前提がある。

 ローザック (1992, 1995) は、従来の心理学やサイコセラピー(心理療法)が扱ってきた範囲は個人、家族、社会など人間社会に限定されており、人間以外の生き物や自然の世界がその対象から欠落していること批判し、心理学の理論と実践の概念をエコロジカルな文脈で捉えなおすことが不可欠であると主張する。また、環境保護運動は活動の重点を組織化、教育、扇動することに置き、環境に対する人間心理の複雑さについて考慮してこなかった点について批判する。脅したり、罪悪感を植えつけることではなく、「新しい心理的な感受性」が環境保護運動に不可欠であるという。この両分野がそれぞれ欠いている部分を互いに補い合って統合するものがエコサイコロジーだといえる。

 惑星規模で展開される環境破壊は、ローザックが言うように、私たち人間の日常生活の精神病理である。現在、私たちは人間と自然との関係を問い直し、再び自然との結びつきを取り戻すための転換期に生きている。エコサイコロジーが、私たちの進むべき道すじを示してくれることを筆者は信じている。


 このブログでは、日本ではまだ普及していないエコサイコロジーの理論と実践や、エコサイコロジーと関連する分野を紹介していきたいと思う。


1. Hillman 1995, p. xxii


参考文献

Hillman, James (1995) . A Psyche the size of the Earth: A psychological foreword. In T. Roszak, M. Gomes, and A. Kanner (Eds.), Ecopsychology: Restoring the earth, healing the mind (pp.xvii - xxiii). San Francisco: Sierra Club Books.

Roszak, Theodore (1992/2001). The Voice of the earth: An exploration of ecopsychology (2nd ed.) Grand Rapids, MI: Phanes Press.

Roszak, Theodore (1995). Where psyche meets Gaia. In T. Roszak, M. Gomes, and A. Kanner (Eds.), Ecopsychology: Restoring the earth, healing the mind (pp.1-17). San Francisco: Sierra Club Books.